岡さん
 岡秀雄さん、95歳。岡さんが今から65年前に構成を担当した映画「国営開墾地」(22分 昭和17年)が国立近代美術館フィルムセンターに保存されていることがわかりました。5月25日に、この映画を岡さんと一緒に見せてもらうことにしました。
 2~3年前に岡さんに聞いた話では、この映画は映画法による強制上映で全国の映画館で上映され、新潟の甥御さんが映画館で見て「叔父さんの名前が字幕に出ていた」と手紙をくれたそうです。
 岡さんは戦前、プロレタリア映画同盟(プロキノ)に所属し、上野耕三(記録映画監督、戦後に記録映画社創立)の処女作「団結餅」の撮影を担当。写真も撮っていてプロレタリア写真家同盟の書記長になり、治安維持法で検挙投獄されました。その後、新聞社で漫画を描いたり、映画演劇評を書き、やがて十字屋映画部、そして統合された日本映画社で企画調査、構成を担当しました。戦後はSONYが始めたオートスライド(音声付き自動上映スライド)の構成、演出からイラストまでを一人でやるなど、さまざまなメディアの仕事をしてきました。
 岡さんが元気なうちに、映画法による映画製作の実態や、戦後のメディアの変化への対応など、聞いておきたいことがいっぱいあります。「国営開墾地」の試写会をそのきっかけにしたいと思います。★この映画の撮影は、戦後、科学映画、顕微鏡映画で有名になった小林米作(昨年100歳で没)だそうです。
(試写会は非公開ということなので、詳細は090-4028-8381榊までご連絡ください)

ルイヴィトンa ルイヴィトン 池袋ルイ・ヴィトン


 先週、池袋東口の近くで、ハッとする映像ディスプレイを見つけました。ご覧のようにハイビジョンの画面を縦に二つ並べています。つなぎ目を太い帯にして、ショーウィンドウのデザインと合わせています。視る位置(高さ)によっては、映像のモデルが中から歩道に出て来るような、あるいは歩道から入っていったような、外とつながっている錯覚を与えるはずです。(映像のアングルを歩行者と同じレベルで撮影するといいのかもしれません) 

 映像はファッションショーのドキュメントで、モデルが次々にやってきては、くるりと回転して遠ざかるものでしたが、意図的に周囲の環境に溶け込ませたり、別世界に入り込むような映像もいずれ登場するかもしれませんね。(すでにあるようでしたら、教えてください!)

 映像力として評価するとしたら、動くマネキンという発想、16:9のスクリーンを縦に並べたアイデア、そして映像をイメージ先行の動くマネキンのようにはしないで、本場のショーをそのまま見せるというリアリティーをねらったのも新鮮でした。私には全く用はありませんが、街の環境映像としても、いい感じです。

靖国パンフ パンフレットと入場券


靖国史観という言葉があるそうです。日本のアジアへの侵略戦争をやむをえない、あるいは正しかったとする歴史認識です。写真の、やすくに大百科や、遊就館のパンフレットにそれは表れています。日本が戦争した事への反省はまったく書かれていません。

パンフレットの下にあるのは遊就館の入場券です。描かれているのは「ゼロ戦」です。実物のゼロ戦は館の玄関に展示されひときは目を引いています。まさにシンボルなのです。

このほか、自爆兵器である人間魚雷回天の実物、着陸を想定しないため脚のない自爆ロケット特攻機「桜花」実物、そして戦艦大和も巨大な模型と主砲の実弾が展示されていました。戦跡から収集された戦闘の激しさを伝える遺品、兵隊が家族へ当てた最後の手紙など生々しい資料もありましたが、全体の展示ストーリーの中では、それらは戦争の悲劇を美化する働きをしているようです。

映像では、欧米列強のいじめに抗してそれを断ち切るために戦う自衛戦争という全体イメージを与え、家族や国土を守るために死ぬ自己犠牲の美しさに感動させる。一方展示では、実物を見せて事実(確かに表面的には事実だ)を具体的に示し、考えさせ、納得させ確信させるという巧みな演出がありました。

しかし、この遊就館の総合的な展示演出は、人間の思考や感情に影響を与える映像の作り方や使い方について、実地に研究できる格好の教材ではないかと思います。メディアリテラシーや情報の学習に活用できないか検討したいと思います。

興味のある方は御連絡ください。一緒にやりませんか!

遊就館  遊就館2  遊就館2  映像があちこちに。


明治2年戊辰戦争の戦死者を祭つるために明治天皇によって建てられた招魂社が、西南戦争後の明治12年に靖国神社と改められた後、明治15年に日本初の軍事博物館として開館したのが「遊就館」です。黒船来航から、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に至る近代日本の戦争の歴史が、実物資料や模型、写真、絵画、パネルなどで詳細に展示されていますが、ここで私が注目したいのが、映像です。

写真左は映像ホールで、「私たちは忘れない~感謝と祈りと誇りを~」という長編ドキュメント(50分)が常時上映されています。

中の写真は展示室と展示室つなぐスペースに置かれたモニターで、ニュース映画の日本軍かく戦えりというような映像が当時のナレーションのまま流されています。

そして右は現代の沖縄。終戦まじかに看護婦として徴用され、米軍上陸で悲惨な体験をして生き残った女性たちの現地再訪のドキュメントでした。(これは途中しか見ていないので不正確です)

映像はこのほかにも、展示の中で、欧米列強による日本包囲網の説明、三国干渉の解説などにも使われていました。また戦争に関わる様々な映像を選択して見られるブースなども設置されていました。

今回は駆け足でしたが、しかしこれらの映像には、日本の戦争についての一貫した考え方が読みとれました。日本は欧米列強の不当な圧力に抗して国土と国民を守るためにやむをえず戦った。それは朝鮮、中国、アジアを欧米列強から解放する戦いでもあった、という考え方です。

映像ホールの長編ドキュメンタリーの最後は「私たちは忘れない。なぜ戦わねばならなかったのか」「私たちは忘れない。感謝と祈りと日本の文化の誇りを」と結ばれていました。

遊就館の映像は、私のようにはじめから靖国神社に警戒心を抱いている者にとっては、一層警戒を強める働きをしますが、何も知らない青年や子ども達には、どんな影響を与えるでしょうか?

映像をプロパガンダ(政治宣伝)に利用する具体例を見た思いがしました。(つづく)

靖国神社 靖国神社拝殿  遊就館パンフ 遊就館パンフレット


先日、仕事の帰りに、近くの靖国神社に立ち寄りました。境内の桜は五分咲き。平日ですが本殿には参拝する人が絶えません。私もまずは参拝することにしましたが、ここがどこかもわきまえず、旅行中の娘の無事を祈ってしまいました。賽銭を投げたとたんに現世利益御願いモードになってしまったのです。

そこで再度、戦没者の霊に手を合わせましたが、いざとなると何て拝んでいいのか分からず、結局ただ型どおりの拝礼に終わってしまいました。

実は今日の目当ては参拝ではなく、神社の境内にある軍事博物館「遊就館」を見ることでした。靖国神社が純粋に戦没者を追悼する施設なのか、それとも韓国や中国が問題にするように、アジア侵略を正当化する思想的、政治的背景をもつ施設なのか、遊就館をみれば分かるといわれているからです。(つづく)



写場1  写場2

 写真は埼玉県川口市で見つけた写場のあと。写場とは撮影スタジオのことです。縦の看板には「寫場」という古い漢字が使われています。昭和15年創業と書かれていますから今から66年前。日米開戦の前年で軍国ムード高まる時代ですから、きっと徴兵で出征する兵隊さんの記念写真や、戦地へこっそり持って行く家族写真などを撮影して繁盛していたと思います。
 昔の街の写真屋さんは、写真館と称してたいてい写場を持っていて、赤ちゃんのお宮参り、七五三、入学や卒業の記念、そして見合い写真や折に触れての家族写真を撮影していました。戦後カメラが一般に普及するにつれ、写真館はどんどんなくなり、さらにデジタルカメラの普及で小さな写真屋さんはどんどん消えていきました。この常磐写場は小さな交差点の角にあって、店の奥は平屋の住居になっています。写真館というほどの規模ではないため、あえて写場と称したのかもしれません。店じまいからかなりの年月が経っているのでしょう、人気のない住居から電信柱へ伸びている電灯線に、ツタが幾重にもからみついていました。付近一帯は、かって鋳物工場とその関連工場が立ち並んでいたところですが、いま残る工場はわずかで、ほとんどはアパートやマンションに代わっています。そこで生きていた様々な人や家族を撮影した常盤写場の主はいったいどんな人だったのか…、どんな写真を撮っていたのか…、そして今は何をしているのだろうか…。気になります。
屋根1   屋根2
 このところ更新をさぼっています。ネタがない訳ではありません。暇がないわけでもありません。実はこのブログのほかに、「イメージハンティング」「サーチライト光害に規制を! 2」そして1月からもう一つ試作中のものもあります。さらに、いとこ達のMixi(いま流行のコミュニケーションツール)にも参加しています。なので「映像力」の話題はもっと映像研究に特化しようと、つい身構えてしまったのです。でも、やめました。もっと気楽に、もっと自由に、そしてできればもっと多くの方にコメントをいただけるようなブログにしていきたいと思います。
 さて、写真は昨日の雪。午前11時と午後4時です。雪は朝にはやんでいましたが、昼頃までは屋根は真っ白でした。その後も陽は射さず寒かったのですが、夕方にはすっかり溶けていました。こうした映像の変化に心惹かれるのはなぜなのか? 答えを出してからではなく、疑問に思った時にすぐブログに書いて行くようにしようと思います。


■現実のシミュレータとして

 最後にもう一つ、この映画の活用について。この映画が実際に学校でどのように活用されたかというデータは残っていません。この映画の実質的な作者でもあった矢口新からも聞いていません。ただ、例の第3編「工員の仕事」は、矢口が国立教育研究所をやめ、財団法人能力開発工学センターを始めてから十数年間、企業の教育担当者を対象とした「教育システム設計者養成セミナー」で仕事を捉える学習の導入として活用されました。


 はじめに映画全体を通して見た後、今度は途中で止めながら、何度も何度も見て、女子工員清水さんがいま何をしているか、連続した行動を区切ってひとつひとつカードに書き出します。次ぎに一つ一つの行動で何を見てどのような測定をしているか、どのような判断をしているかをカードに取って行きます。小グループに別れ意見交換しながら進めます。こうして清水さんの仕事の構造を明らかにしていくのです。清水さんは、糸が切れたらそれを直し、ほこりが貯まったら掃除をするというように現象に追われて忙しく働いているように見えますが、実は糸がどのような工程で作られるか、機械がどのような機構で糸を作っていくか、その中で人間がどのように関わればうまくいくか、ということを全体的に把握して、もっとも合理的な仕事の仕方を自分で作り上げていることが次第に見えてきます。セミナーではこの分析を3、4人のグループで実際にやることで行動の捉え方、分析の仕方を学習します。映画「工員の仕事」はその学習の教材として長く使われました。映像が、メッセージや情緒を伝えるだけでなく、現実のシミュレータとして学習に効果的に使えるということを実感した映画でした。こうした映像の使い方は、しかし学校では残念ながらほとんどされなかったように思います (この項おわり)

■「綿紡績シリーズ」の評価

綿紡績シリーズの評価について、記録映画監督の上野耕三(記録映画社創業者。私の師匠)が次のように書いています。
 『この映画のことは書いておくに値する。現場の監督は田中喜次君がやったらしいが、矢口さん(注:企画・監修者の矢口新)とスッタモンダもめたらしい。一口に言って我々の仲間には「映画」とは思えないのである。映画的な処理がないからである。この映画については、いつだったか映教(注:映画教育協会)の元の事務所(木造の三階建)で15人か20人集まって研究会を開いた。私以外は誰も発言しなかったように記憶しているところから思うと、矢口さんも出席されていたのであろう。』(上野耕三「回想録」P143 注は映像力筆者)
 このとき他の人はどうして何も発言しなかったのか…企画監修者で現場で製作を指導した矢口新本人がいたため遠慮したということもあるでしょうが、私は、この映画が当時のいわゆる鑑賞する教育映画とは全く異なるつくり(構成、撮影、編集)であったため、評価できなかったのではないかと思っています。
 この時ただひとりこの映画の意味を理解して支持した上野耕三に後に聞いた話では、「工場労働の実態や働く人の人間が描かれていない」というのが大方の評価だったようです。多分、工場労働者が厳しい労働環境に置かれ抑圧されている現実を描いていないという批判だっだのではないかと思います。「工員は便所にもいかないのか」という意見もあったそうです。そういう見方で見れば、女子工員清水さんの仕事ぶりがすばらしく見えれば見えるほど、工場労働を賛美し資本家を喜ばせることになるという批判があってもおかしくない時代でした。映画の評価、特に教材としての評価の難しさを感じさせられるエピソードです。
  尚、この映画のスタッフ(下記)は、当時の短編映画では有名な錚々たる人たちです。シリーズ第2編「進んだ技術」は、伝統的な手仕事と工場の機械を比較して大量生産の技術を理解させる構成で、その年の教育映画祭特別賞を受賞しています。「工員の仕事」に比べ、映像で興味を引きつける題材であったからでしょう。


★データ
脚本/村治夫  演出/田中喜次  撮影/植松永吉
照明/近藤孝夫  録音/田中啓次  
製作/財団法人中央教育研究所
研究スタッフ/矢口新、飯島篤信、岩井龍也、主原正夫、小林達也
(1958 昭和32年完成)

清水2   清水3
  粗紡機のほこりを取る清水さん            糸玉揚げを手伝う清水さん




■拍手が沸いた「工員のしごと」


東京産業考古学会の研究会で上映した「綿紡績シリーズ」のうち、唯一、上映が終わったとき拍手が起こったのが第3編「工員のしごと」でした。通常このような教材映画では拍手はしません。(監督やカメラマンが同席していれば別ですが) ではなぜ拍手が起こったのか?私が思うに、この拍手は一種の感動の拍手、それも作品に対してというより、この映画の中に登場する女子工員清水さんの仕事ぶりのみごとさに対する感動の拍手ではなかったかと思いました。


映画は、清水さんたちが早出の人たちと交代する場面から始まります。工場へ入った清水さんは受け持ちの粗紡機へ行き、機械の調子などの引き継ぎをします。2台の粗紡機を担当する清水さんは、原料(スライバーという綿の紐)を前工程から運んできては機械にセットし、スライバーの切れや粗紡途中の糸切れを監視し、切れたらすぐに手作業で繋ぎます。また絶えず機械を監視して、綿ぼこりを清掃します。さらに巻き上がった糸玉を取りはずす糸揚げでは、専門の糸揚げ工の手伝いをます。こうして原料、機械、製品、仕事の段取りと仲間や仕事場の環境にまで気を配りながら、てきぱきと無駄のない動きで働いています。カメラは清水さんのそうした行動を長回しで撮影し、分かりやすく編集しています。この映画は清水さんの仕事の見事さ表すのが目的ではなく、機械化された工場の労働とはどのようなものかを生徒にとらえさせるのが目的ですが、映画スタッフもきっと清水さんの仕事ぶりに感動していたに違いありません。そのことが見る人に感動の拍手をさせたのだと思います。(もう少し続けます)